2012年 ブログ   

もう2月

はやいもので1月が終わりもう2月突入・・・
福岡もこのごろは、大変寒くなり風邪などひいてませんか
1月も多くのお客様にご来店頂きありがとうございます。
那珂川店は、オープンして4ヶ月程経ちまして今年2月より
ご予約の受付を始めました、今は平日のみですが4月ぐらいからは
週末もOKで又コース料理・飲み放題等のご予約も検討中です、
ご期待下さい。

博多長浜物語

博多長浜物語 第一章

歴史の街「博多」

いま日本でいちばん、元気な都市といわれる福岡市。しかし、新幹線で福岡に降り立つと、そこはJR福岡駅ではなく、JR博多駅。ほかにも博多山笠、博多どんたく、博多人形、博多織…と、名物にはほとんど“博多”がついてきます。
じつはこのまちを正式に福岡市としたのは市政施行の明治22年で、ほんの100 年ほど前のこと。それに比べ、博多は日本最古の都市といわれ、なんと2000年以上の歴史をもつのです。歴史に関わるモノやコトにとかく博多がつくのも納得というワケ。
ところで、“博多”の語源にはいくつかの説があります。その中でも有力なのが、内外船の“泊”まる“潟”がなまって泊潟→博多となったという説。博多が古くから対外交渉の場として栄え、博多商人の多くが船を操り、貿易取引で財をなしたという史実が“泊潟説”の何よりの説得力といえるでしょう。
志賀島で発見された金印が邪馬台国論争の焦点になったのをはじめ、博多にはアジアとの交流を示す歴史に事欠きません。536年には九州を治めた大和朝廷が大陸との外交を行うために太宰府の前身となる拠点を設け、それを機に博多は太宰府の外港的役割を果たすようになります。遣唐使や遣唐僧の宿泊にも利用された鴻臚館の遺跡が福岡市のド真ん中から発掘されたことは記憶に新しいところです。
年表を少し早送りして、安土・桃山時代。豊臣秀吉が朝鮮侵略の基地として博多を選んだのも、この地が外国貿易の拠点という理由からです。当時、博多の主として活躍していた商人たちは米の集荷や船の調達に力を注ぎ、太閤町割りにも協力。博多商人が地域の商人から天下の商人に飛躍した時代でした。
博多山笠や博多織や博多人形もそんな商人たちが築いた文化の一端。商人は商人でもソロバンずくではなく、小さなことにこだわらないきっぷのよさが身上。それは博多っ子気質として現代に受け継がれています。

博多長浜物語 第二章

味の街「博多」

古の昔よりアジアへの交易港として発展してきた博多。港の存在は食文化の中でも大きく関わっています。
海産物は博多を代表する味として全国でもあまりに有名です。博多は、漁港に恵まれた環境にあり全国でも屈指の水揚げの多さと、種類の豊富さを誇る市場で新鮮で生きのいい魚が手に入ります。たとえば「ごまさば」。さばの刺身に薬味としてごまをかけ、醤油で和えた博多を代表する食べ物ですが、さばという痛みの早い魚を生で食せるのも、鮮魚が手に入る環境にある博多ならではのものです。めんたい、もつ鍋、水炊き、おきゅうと等博多を代表する味は数多くありますが、なんと言ってもとんこつラーメン。今や全国ブランドとなった博多とんこつラーメンですが、その歴史は戦後の混乱期の中から生まれました。
博多ラーメンは、昭和16年頃、とあるデパートのよこに屋台が開業した事に始まります。しかし、この屋台で出していたラーメンは現在のような白濁したとんこつスープではなく、透明感のあるスープを使ったいわゆるシナそばでした。当時、博多には80軒程の屋台があり、博多駅、天神、渡部通りなどで開業していましたが、そのほとんどはうどんを売っていました。
昭和23年頃、夜なきうどんの屋台を引いていた主人が何かよその屋台にないものをと考え、思い浮かんだのが戦時中、中国で食べたソバでした。
そのソバが、豚の骨を煮出してとった白濁したスープに、カン水を加えた小麦粉を練ったコシのある麺。まさに博多ラーメンの原形です。その後、麺の食べやすさや原料などに改良が加えられ現在のラーメンの形に定まっていったのです。

博多長浜物語 第三章

博多「長浜」ラーメンの誕生

ここではまず、長浜の町の歴史にふれておきましょう。
現在では、多くの企業ビル、倉庫をはじめ漁港、鮮魚市場や数々の飲食店、マンション等が立並ぶ町ですが、かつては遠浅の砂浜で、長浜公園や長浜通りあたりは潮干狩りや海水浴を楽しむ名所でした。
昭和の初めに遠浅の海底をさらって、その土砂で海岸を次々に埋め立て25万平方メートルの広場を作りました。その広場において昭和11年に博多築港記念博覧会が開かれ、福岡市の経済発展の起爆剤となったのです。
博覧会が終わってから、長浜町が福岡の新興地として発展し始め魚市場や倉庫が立並びました。長浜の地に魚市場が移転してきた事こそが、今や全国ブランドとなった長浜ラーメン誕生と深くかかわっているのです。
長浜の屋台の歴史は、博多区大浜にあった魚市場が昭和30年に中央区長浜に移転した際に、魚市場の周辺で店を開いていた屋台がそれに連れて、大浜から長浜に移動したことにはじまるのです。
屋台は魚市場で働く人々に安く朝食を提供する店として発展していきました。
昭和の初め、博多の屋台はうどんを売っていたのですが、博多ラーメンの誕生に伴い昭和40年頃からラーメンが主流となります。その時、魚市場で働く人々に安い料金でたくさんの量を食べてもらおうと、名物でもある「替玉」が登場しました。
長浜の屋台がマスコミ等を通して紹介され、また、大手食品メーカーによるインスタントとんこつラーメンの販売により全国に広く知られ、国内はもとより、国外の観光客にも親しまれるようになりました。
もともと特定の名称のなかったラーメンが屋台が営業する長浜の地名から長浜ラーメンと呼ばれるようになり、全国ブランドとして定着しました。つまり、博多ラーメンは長浜の屋台が発祥の地なのです。

博多長浜物語 第四章

からしたかなラーメンの元祖「長浜将軍」

魚市場の場外。道端に揺れるのれんをくぐれば、そこには裸電球に照らされた懐かしく、あたたかな光景が広がる。あうんの呼吸で出てくるラーメン。それをいかにもうまそうにすする顔、顔。20年前、長浜に生れた「長浜将軍」の原風景です。
ラーメン1杯が○○円くらいの時代。具はいまとあまり変わらず、焼き豚とワケギ、胡麻と紅生姜など。博多「長浜ラーメン」というひとつの枠のなかで、各屋台はさらに独自性を競い合って見事なラーメン文化を結晶させてきたのです。
店によっては取り放題のからしたかなやにんにく、漬物などのサービスがありますが、博多「長浜ラーメン」と「からしたかな」の相性を最初に発見したのは「長浜将軍」でした。
鉢から好きなだけ入れ放題というのも昔のまま。高菜を切るのに機械を使わず、手切りするのも昔のまま。お客様に喜ばれることは変えないのが、からしたかなラーメンの元祖「長浜将軍」のポリシー。
ある食べ物が生まれ、愛され、育てられるのには、それなりの必然があるのです。
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